変わり種ちーずの日常

きまぐれコラム。ポテチ片手に読んでみてね。

まぜない。

"本当のこと"と"本音"はたぶん、違う。

 

大好きな相手に寄り添いたいと思って発した本音でも、同時にそれが自分の欲を満たしたいがためのエゴでもあることだってあり得るし、知らないうちに彼らを追い詰めたり、傷つけていることだってある。

 

本音によって、本当のことが霞んでしまったり、あるいはすり替えられてしまったりすることだってあることを、私は知っている。

 

そうならないように気をつけていても、私はいつも間違えてしまっているように思う。

 

立ち止まってみると、自分がこれまで何か途方もない、取り返しのつかないことをしてきたのではないかといつも思うのだ。

 

もっと純度の高い心でいつも大好きな、大切な誰かと向き合っていたい。

 

心はきっと高尚なものだから、扱うときはなるたけ"下心"と"不純物"は、まぜない。めも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あいさつ

明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願い申し上げます。

 

そんな感じの堅苦しい挨拶を家族にし、一礼してから「あ、ねえねぇそこの醤油とって〜」などの何気ない会話が続くのが我が家のお正月。

 

お上品な家族でもないし、普段は全くそんな言葉遣いをしないのになんだか不思議な感じだが、私にとってはそのぎこちなさの中に「親しき仲にも礼儀あり」的な姿勢が見え隠れしている感じが心地よかったりもするのである。

 

あいさつといえば、我が家はなにかと挨拶に厳しかったような気がする。小さい頃から、「おはよう」「おやすみ」はもちろん、「ありがとう」「ごめんなさい」は、親しい仲では言わずもがなという気持ちになりがちだからこそ、厳しく躾けられてきた。

 

「明日会えなくなったときに後悔しないように、誰に対しても挨拶はちゃんとしなさい」

 

親の言うことをなかなか聞かなかった頑固な私ですら、母親からのその言葉は未だに常に頭の片隅に意識できるくらいに心に響いた。

 

そのため、人見知りではあるが出会う人には精一杯心を込めて挨拶をしている(つもり)。

 

加えてわたしの挨拶癖に拍車をかけたのが、中学校の時に入部していたバレーボール部の顧問の先生の教育だ。

 

先生はとても厳しく、とくに目上の人に対する礼儀や挨拶に関してはあの三年間でみっちり教わったと言っても過言ではないと思う。

 

もちろん今でも完璧ではないが、今よりももっと礼儀というものを全く知らず傍若無人だった私はめちゃめちゃに怒られ、しごかれた。

 

1年生の時、先生への挨拶を怠り無礼を働いた私の連帯責任(尻拭い)としてチーム全員で30分走らされたりして結構気まずい思いをしたのも今となっては良い思い出である。

 

挨拶は、最初にどっちがするか、探り合い的な側面もある。

 

まだ顔見知り程度の人とすれ違った時

 

「お??お??これは??」

 

人見知りの私は毎度テンパる。

 

そもそも私のことを覚えているのだろうか?

 

とりあえず…!

 

「こんにちは!」

 

すると相手側も、気持ちの良い挨拶を返してくれることがほとんどだ(恵まれてますね)

 

何度かそれを繰り返すうちに、今度は相手から声をかけてくれることもある。

 

人見知りな私はキョドる。

 

「え??私に言ってくれてるのかな??」

 

顔に出づらいけど内心めちゃくちゃ嬉しい。

 

挨拶は、私は貴方のことをちゃんと見てますよ、知っていますよ。のサインでもある。

 

基本的に一、二度話した程度では人に認識されていないという前提のもと生きているので、個人的にはこちらから能動的に挨拶をしてしまったほうがやりやすい。

 

人見知りな私でも唯一身につけることのできた挨拶というツール。

 

新年を機に、また新しい出会いがたくさんある。仲良くなれるかなれないかはまた別の話として、これからも挨拶はしっかりやっていきたいですね。

 

2019年もどうぞ宜しくお願いいたします😉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沸点

最近、久々に腹立たしい出来事があった。

 

いや、正確に言うと

 

「腹を立てるべきだった」出来事だ。

 

ある友人に『2回連続』で約束を破られた。

 

いわゆる、ドタキャンというやつである。

ほんのここ2ヶ月くらいでの出来事だ。

 

これを見たあなたは、そんなことで?

 

と思うだろうか。

 

少なくともわたしは、この『事態』を彼女からの何かしらのメッセージとして受け取った。

 

そして、なぜ彼女は私との約束を放棄し、ことさらそれを私に伝えることなく宙ぶらりんの状態にしてほっぽっているのか考えてみることにした。(つらい)

 

彼女にとっての私は、 

 

たぶん、

 

行けなくても何も言わなくても平気そう、許してくれそうな

 

 

「優しいいい子」だったのだと思う。

 

私は普段の自分の言動をひたすら反芻した。

 

そして、気付いた。

 

周りの人や音、出来事に対して過敏に反応する私のカラダは、自分を守るためにさまざまな感度をあえて鈍らせて、そこに沸き上がりそうなあらゆる感覚、感情の沸点を最高値まで「水増し」していることに。

 

ほんとは

 

全然納得できない。 

 

いやいや、それは違うだろうよ。

 

そう思っても、なんせ表出の仕方を忘れてしまっているがために、面倒くさくなって「なんでもいいよ」で片付けてしまうのである。

 

そのくせ、ほんとはなんでもよくないのだ。

 

情けない話である。

 

しかし、この沸点の調節が効くというのは悪いことだけではない。

 

省エネなのだ、要するに。

 

余計な期待を抱かないことによって、相手にも負担をかけることなく、適切な距離を保って付き合うことが出来ていると思う。

 

来るもの拒まず去る者追わず のマインド。

 

そもそも自分自身だって毎分毎秒変わっていくものなんだから、それを取り巻く人間関係だって必然的に流動的になることもあるし、それが自然な形だとも思う。

 

その時その時の自分に寄り添ってくれる存在がいることは、たとえそれが永遠の絆とはならなくとも、思い返したときとても幸せな気持ちになるものである。

 

そんなわけで、いつもニコニコいい子だけをやっているとたまにこういう目に遭うのだが、

 

ある意味では、彼女とわたしの間に以前からあった何かしらの歪みが表面化したというだけのことなのかもしれない。

 

あれ、もうあんまりムカついてない。

 

 

てか、もはや少ししたらまた会ってお酒でも一緒に飲んでたりするのかしら。

 

こういう「いつの間にか水に流しちゃう」的なところは長所として考えてもいいのかな。

 

でもこれだけは言える。

 

ドタキャンは、ダメ、絶対。

 

 

 

 

毎年

毎年、思い出さなければならないことがある。

 

それは、私にとって忘れたくても決して忘れることのできない出来事で、鈍い痛みとともにふとしたとき、私の心の中にやってくる。

 

長年自分の中に渦巻いていた複雑な思いを文字にしたためるのは、すごく勇気のいることで、ましてやこれをSNSにのせるなど考えもしていなかった。

 

この痛みを"人目につくことろ"に公開することに対して、彼女に対して後ろめたい気持ちがしてならなかったのだ。

 

でも、今の気持ちを"書く"こと、そして無理のない範囲で"読んでもらう"ことで、自分の中で止まっていた何かが動き出すかもしれない。

 

そう思って、自分のためにこの文章を書いている。ジコチューだ。ごめんなさい。

 

わたしの大切なひとが旅立ったのは、ちょうど7年前のきょう。11月21日。

 

あの日も今日のように気持ちの良い秋晴れだったと思う。 

 

それは本当に突然の出来事で、まだ14歳だった私は、大切な人を亡くした瞬間から、ただただ愕然としながらやり過ごすことしかできなかった。

 

どこにもぶつけることのできない怒り、悲しみ、寂しさを、毎日を忙しく過ごすことでなんとかごまかそうと必死に生きていた。

 

"可哀想"

自分をそう思いたくなかったし、思われたくなかった。

 

今会えるなら、あの頃の私をきつく抱きしめてあげたい。

 

辛いね。

 

この痛みを消すことはできないし、この大きな穴は他の誰にも埋めることができない。

 

でも大丈夫。たぶん、大丈夫になるから。

 

って繰り返し言ってあげたい。

 

そしたら彼女はきっとたくさん泣いて涙を流して、それから少し寝て、そしてまた毎日を生きるのかな。

 

でも、どちらにしても今ここで私が生きているから、彼女は大丈夫だ。きっと。

 

この出来事をうまい具合に消化できる頃にはきっと私はおばあちゃんになってるのかもしれない。

 

あるいは、おばあちゃんになっても無理なのかもしれない。

 

でも、今私が生きてることだけで誰かの勇気になったりしてることもあるっぽいし、日々大変だけどそれをちょっとずつ乗り越えながら大人になっていくことが、せめてもの孝行

だと思う。思いたい。

 

今日もいい秋晴れだよ。おかーさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

器にまつわるエトセトラ

おはようございます☀

 

寒いですね〜…

日々、末端冷え性と闘うまるちーずです。

 

こんな時期はあたたかいコーヒー☕️が恋しいですが…

 

飲み過ぎは冷えの元☠️

 

適度に嗜みましょう!🐱

経験談、個人差あり

 

さて、今日わたしが

なぜ久しぶりに筆をとったかというと、

 

この間たまたま

皆様ご存知

占い師ゲッターズ飯田さんのコラムを見つけて読ませて頂き、

心がホッとしたので

ぜひ皆さんにもシェアしたいと思ったのです。

 

参考記事はこちら

https://www.google.co.jp/amp/s/news.nifty.com/amp/entame/showbizd/12199-dMHCcGCI57/

 

この記事のお話の中に出てくる

 

幸せの器

 

というキーワード。

 

これ、わたしが今までずっと心の中で抱いていた葛藤を打ち砕いてくれました🐣

 

彼によると、

人にはそれぞれ幸せを充分に感じることができるスケール=器があり

 

その大きさも、また千差万別なのだそう。

 

この記事の中では器にまつわる視点として、お金と人が挙げられていましたが、

 

今回は人について書きます。

 

わたしは、人が好きです。

 

街中で人を観察したり、街行く人々の服装や髪型、靴などから勝手に各々のストーリーを考えて楽しんでいるような輩です(やばめ

 

が、しかし、

 

わたしは

 

多くの人と、SNS含め自ら積極的に関わること

 

 

ができません。

。。。

 

くるしい…むり…

 

 

なので

たくさんの人たちが各々に好きなことをつぶやき、各々が好きにそれらを解釈し、気軽に交流するはずのTwitter

(情報が多すぎる、ひとことひとことに意味を見出そうとしてしまう

 

友人や家族との何気ないやりとりから、学校や職場での事務連絡に至るまで、集団生活においても幅広いコミュニケーションのツールとして重宝されるLINE

(返信頻度とか、返信への義務感および相手の顔がわからない状態でのコミュニケーションへの違和感、集団心理のこわさ

 

 

これらも

 

ぶっちゃけ

 

ものすごくしんどい。

 

常に誰かとつながってるの、しんどい。

 

ちょ、一回ひとりになりたい。。

 

 

周りの人たちだってしんどくて、必要にかられてやってるだけだ!!!

 

でも、案外そうでもない…?あれ…?

 

なんでかな?私だけ??

 

ひとりひとりとなら、ゆっくりじっくりお話するなら、全然苦にならないのに。

 

なんで、たくさんの人になるとダメなんだろう。

 

自分ってやっぱり使えない人間??

 

ってぐるぐる負のループに入って

 

ってなことを繰り返してきました。

 

でも、ゲッターズさんの記事を見た時

 

あっ

 

って声が出そうになりました。

 

そうか。器の大きさだ。

 

つまりわたしは

 

今のままでも充分幸せに感じているにもかかわらず、コミュニケーション能力が高い人たちと日々過ごしていく中で

 

その人たちのもともと持っているキャパシティと自分のキャパシティを無意味にも比べ、無意味にも落ち込み僻んでいた

というわけ。

 

その大きさは根本的に別々の存在であり、優劣ではないということ。

 

 

やっと分かった。また見つけた。

 

私の劣等感の正体。

 

生きづらさの正体。

 

ちょっとでお腹いっぱいになるのに、美味しそうなものについつい手が伸びて

 

気づいたら満腹すぎて苦しい…

 

みたいな感覚。

身の丈に合ったしあわせ。

 

噛み締めていこう。

 

少しずつ自分のペースで

 

しあわせの器、広げてこ。

 

ってホッとすることができました。

 

ちょっとでも似た感覚を持っていた人の救いになれれば嬉しいナ…いないか…

 

 

ではまた🙉🌟

 

おとしもの

 お久しぶりです。

 

季節の変わり目ですが

みなさんお元気ですか?

 

 

投稿のペースは

大雑把なのもご愛嬌(自分で言う)😼

 

いやぁ、秋ですねぇ。秋、好き。

 

涼しい風に当たりながらキンモクセイの香りが漂う並木道を歩いていると、

 

生きててよかった!

 

って本当に思います٩(´0`)۶

 

そんな素敵な秋に

わたしはスマホを落としました🙄…

 

でも、

スマホと距離を置いた一週間で

今まで便利すぎる日常で忘れていた

 

あえて手間をかけること

 

の大切さを改めて思い知らされたので

今日はなんとなくそんな話を

ここに書き留めます📝

 

 

このご時世、

スマホがないと

不便きわまりない!

 

その言葉通り

わたしももれなく

不便をたくさん被りました…🙀

 

初めていく場所へのマップがその場で調べられない為、家のpcからプリントアウトした地図を使ったり😞💦

そして最大の難点は

周りとの連絡が取れなくなったこと。

仕方がないのでpcを使ったり、家では

 

外出するので

21時までは探さないでください。

 

って感じで、

家族に置き手紙を書いたり✉️

 

スマホがあればこんなことせずとも

一瞬でコミュニケーションを取ることができます。

 

でも

コミュニケーションに手間をかけなくなるということは

 

気持ちを相手に伝えるために

言葉を一生懸命選んで

苦しんで紡ぎ出すこともせず

自分が放った言葉に自覚を持つことが

できなくなっていく。

 

たとえば

インターネットで

有名人の誹謗中傷のコメントを書く。

 

スマホができて、それがpcからよりもより手軽に出来るようになりました。

 

 そんな最高で最悪な環境のもと

何食わぬ顔で匿名として

 

"手軽に"

 

 

言葉のナイフを容赦なく刺す。

 

凶器を向ける側は、

自分の放った言葉に自覚がないゆえに

その暴力性、狂気がいかなるものか

理解していないように感じます。

 

これってすごく怖いことだと思います。

そこには剥き出しの感情だけ。

その人のことを想って

手間暇かけて

精製された言葉は

どこに行ってしまったのでしょうか?

 

いろんなことが

便利になっていくことは

ありがたい。

でも

言葉を伝える手段が

たとえどんなに便利になっても

なにげなく発した言葉が

知らないうちに誰かを傷をつけることが

なるべくないように

 

なるべく時間をかけて

 

手間をかけて丹精込めて!

 

言葉を贈ろう。

 

不便なこともたくさんあったけれど、

そんなことに思いを巡らせた

スマホのいない一週間は

なんだかすごく不思議な気分でした

 

便利さと引き換えにして

大事なものを

落とさないように😌📱✨

 

あ、

スマホは落としちゃダメですよ〜🙅

 

それでは🌟

8月32日。

こんばんは。

お久しぶりの投稿です。

 

🎶いまの気分は

クラムボンさんで

Across The Universe でお送りします🎶

 

みなさんにとって、今年の夏はどんな夏でしたか?

 

わたしは、約2ヶ月半ある夏休みを

それなりに考えて

感じて

行動して

過ごせたのではないかと勝手に思っています。

 

その理由のひとつはやっぱり

ロシアでのワークキャンプ

ここで、人と関わりを持つことでコミュニケーションへの感じ方がまた少し変わりました。

 

人って根本的には孤独です

地位や名声、肩書きを玉ねぎみたいにむいてったら、

つるつるで何もない状態になります。

これが本当の姿。

 

これはどんな社交的な人にも同じことが言えると思うのですけど。

 

だから、やっぱり結局のところ

人は人と関わることで元気になります。

 

もちろんストレスも生じるでしょうし、窮屈に思うこともあるかもしれませんけどね。

 

なんでこんなことを考えたというと、(結局いろいろあってブログを更新できなかったのですが)英語圏ですらない国で、人とのコミュニケーションから逃げられない状況の中に、2週間放り込まれたからだと思います。

 

けれど、ビクビクしている暇はなく、

とにかく誰かと話さなければ、

ホテルにチェックインができない

タクシーに乗れない

食べ物や飲み物が買えない

電車に乗れない

 

などなど…

様々な障壁が生じます。

否が応でも人と関わらざるを得ない。

 

そんな生活を通して

 

どのくらい上手に話せるかを心がけるの

ではなく、

どのくらい熱意を持って相手と向き合ってコミュニケーションをとろうとするか

によって、相手の反応が全然変わってくるということを実感しました。

 

 

日本人気質な私はやっぱり人から見られる自分の体裁を気にして、

うまく喋れてなかったら恥ずかしい

かっこわるい

と思って、恥ずかしながら初日は売店で水すら買えませんでした(えっ

 

けれど、ある日ワークキャンプの仲間の中の1人が、

ハンバーガーショップで

英語を全く理解していないおばちゃん店員に向かって堂々とした態度で英語を話し始め、あろうことかそれが正しく伝わっていたことを知り、

 

やっぱり伝わるか迷うのではなく

伝わるようにコミュニケーションを工夫することで、相手にも気持ちよく伝えることができるんだ。

 

ってすごい中学生からやり直したい気持ちになった反面、すごく当たり前のことだけど、やっと「納得」できたと感じました。

 

言葉は通じなくても、

困っている時にはいつも道ですれ違った人がさりげなく助けてくれたり

 

ロシア語が話せなくて、

必死でジェスチャーをする私の姿に笑いながらも、優しく対応してくれた店員さんの存在があったり

 

一部では

 

おそロシア

なんて呼ばれることもあるけれど

 

人々もとても温かくて素敵な国だった、という事実は自分自身でコミュニケーションを通してこそ実感できましたし

やはり

ロシアは怖いところ

というバイアスをかけてしまっていた自分を反省し、

百聞は一見にしかずとはこのことだと思い知らされた夏でした。

 

人は人と関わることで

いろんなふうに変わっていくんだな、と

改めて感じました。

 

そんなこんなで、8月も終わってしまいましたが…

私はなんやかんやでまだ終わって欲しくなかったので、今日の日付を

 

8/32

 

と記して今日はおしまい~⭐︎

 

見てくれてありがとうです

次回はいつになるやら〜(汗

 

おやすみなさい🌛