沸点
最近、久々に腹立たしい出来事があった。
いや、正確に言うと
「腹を立てるべきだった」出来事だ。
ある友人に『2回連続』で約束を破られた。
いわゆる、ドタキャンというやつである。
ほんのここ2ヶ月くらいでの出来事だ。
これを見たあなたは、そんなことで?
と思うだろうか。
少なくともわたしは、この『事態』を彼女からの何かしらのメッセージとして受け取った。
そして、なぜ彼女は私との約束を放棄し、ことさらそれを私に伝えることなく宙ぶらりんの状態にしてほっぽっているのか考えてみることにした。(つらい)
彼女にとっての私は、
たぶん、
行けなくても何も言わなくても平気そう、許してくれそうな
「優しいいい子」だったのだと思う。
私は普段の自分の言動をひたすら反芻した。
そして、気付いた。
周りの人や音、出来事に対して過敏に反応する私のカラダは、自分を守るためにさまざまな感度をあえて鈍らせて、そこに沸き上がりそうなあらゆる感覚、感情の沸点を最高値まで「水増し」していることに。
ほんとは
全然納得できない。
いやいや、それは違うだろうよ。
そう思っても、なんせ表出の仕方を忘れてしまっているがために、面倒くさくなって「なんでもいいよ」で片付けてしまうのである。
そのくせ、ほんとはなんでもよくないのだ。
情けない話である。
しかし、この沸点の調節が効くというのは悪いことだけではない。
省エネなのだ、要するに。
余計な期待を抱かないことによって、相手にも負担をかけることなく、適切な距離を保って付き合うことが出来ていると思う。
来るもの拒まず去る者追わず のマインド。
そもそも自分自身だって毎分毎秒変わっていくものなんだから、それを取り巻く人間関係だって必然的に流動的になることもあるし、それが自然な形だとも思う。
その時その時の自分に寄り添ってくれる存在がいることは、たとえそれが永遠の絆とはならなくとも、思い返したときとても幸せな気持ちになるものである。
そんなわけで、いつもニコニコいい子だけをやっているとたまにこういう目に遭うのだが、
ある意味では、彼女とわたしの間に以前からあった何かしらの歪みが表面化したというだけのことなのかもしれない。
あれ、もうあんまりムカついてない。
てか、もはや少ししたらまた会ってお酒でも一緒に飲んでたりするのかしら。
こういう「いつの間にか水に流しちゃう」的なところは長所として考えてもいいのかな。
でもこれだけは言える。
ドタキャンは、ダメ、絶対。